PAPERMOONの歌詞なのか。
作り物の見世物の世界についての歌だ。
全時代、昭和の終わり頃、この歌詞ばかりを頼りに幾つかの舞台が幕を降ろし、劇団ひとりがデビューし、リュックベッソンの電話小屋の映画のシーンが悪い噂話になり木霊した。
信じたなら信じさせたならと薄気味の悪い女がたくさんいたのは、昭和の女の八百長地点としてそんな話が蔓延っていたからだった。
ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」
村上春樹の物語は、曲の流れで進行することがある。
1Q84は、ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」である。
1926年チェコスロバキアで作られた曲だ。
曲を作るときにや売れない素人の売り出しの引っ掛けでヤナーチェックについての歴史上の足跡が辿られ潰され、
挙句にヤナーチェックの脛を齧ると信じていると言ってレコードやCDが齧られ現象としては割られた。
闇に埋もれ、売れる見込みのない素人という人だ。
仰天し憎悪し殺意を抱いた。
インターネットの速さやインターネットの誰かという所在がすぐ判明することや、
インターネットの暗い変な国というのがどの国かすぐ判明するという利点により、
ヤナーチェックという作曲家の所在まで明らかになった。
素人の悪質や悪癖が、本物という素晴らしい世界になったらしい。
青豆という殺し屋とオウム真理教
孤独な殺し屋青豆の天吾という教団の団員との接触や、並列した時間が物語として描かれる。
全体を流れる訓練を思わせる洗脳の空気は、暗くシリアスだ。
宗教というものに捕らわれその中で成長せざるを得なかった生い立ちについて描かれている。
洗脳の空気というものが、その教団の団員として成長することを余儀なくされた子供時代の逃げ場がなく抵抗する力をまだ獲得していない子供の青豆を取り巻いていた。
暗く暴力を下敷きとした有り得ない思想操作が力ずくでなされていく恐怖のようなものが、オウム真理教の内部を思わせる。
長い時間の反復によりなされるもの等により、なされる思想操作について洗脳と明言しておかないとわかりにくいことがある。
明言すべきことだと思う。
電話そして接触〜洗脳のさなかに会いにゆく主人公
公衆電話からかける電話について何気なく書かれていて気にしていなかったのだが、
先の洗脳より執念を燃やされ続ける知り合いという関係が公衆電話だ。
知り合い自体はいなくはならない。
急な不幸に見舞われたわけでもない。
インターネットカフェが出来てから、知り合いなるもの公衆電話でしか連絡をしないらしい。
公衆という言葉からあたかも社会的制裁のような言葉を述べるが、所在を明かして仕舞えば知り合いが公衆電話にてどれだけブラックと接触したかという話のようだった。
洗脳なるものを目的として電話をしないで公衆電話からかけるのか?
疑いは深まるのである。
公衆電話からの連絡で人に会うことに意味がなくとも恐ろしい悪影響があるようだ。
悪とは恐いものだ。
まとめ
主人公ストーカーなるものの目的は、極めると言って真似事や恋人ごっこと描写されたシーンを極限までやることらしい。
その極端の凄まじさに変質者や変態は絶対追いつけない。
村上春樹の小説にはよく娼婦についての描写が刻まれているが、
それを読んだ者たちの娼婦殺しの恐怖の世界の極限や、極度性というものの異常性が、全人類を猿に変え全時代を沈没させたのだと思う。
すでに世界に人間はいないのだ。